ロレックスのGMTマスターシリーズの中で、コレクターから特に熱い視線を浴びているモデルが存在する。それが「ファットレディ(太った貴婦人)」の愛称で親しまれる「GMTマスターII 16760」である。決して優雅な響きとは言えないそのニックネームは、しかしこの時計が持つ革新的な歴史と個性を如実に物語っている。
このモデルの最大の特徴は、そのケースの形状にある。先代のGMTマスター(Ref.16750)と比較して、ケースの厚みが大幅に増している。これは、当時新開発されたキャリバー3085を収めるために、従来よりも分厚いケースバックを採用したからである。そのため、側面から見ると明らかに“太って”見える。これが「ファットレディ」という愛称の由来であり、当時はやや異質に見えたこのプロポーションが、現代では独特の魅力として受け入れられている。
この16760が歴史的に重要な理由は、それが「GMTマスターII」の名を冠した初めてのモデルだからである。従来のGMTマスターは、24時間針を独立して動かすことができなかった。しかし、キャリバー3085の搭載により、24時間針(GMT針)を時針から独立して調整することが可能になった。これにより、時針を1時間単位で動かしてもGMT針は元の時間を指し続けるという、現在のGMTマスターIIの基本機能が確立されたのである。
ケースサイズは40mm。当時としては標準的だったこのサイズに、分厚いケースが組み合わさることで、独特の重厚感を生み出している。ベゼルインサートは、赤と黒の「コカ・コーラ」カラー。この配色は後のGMTマスターIIでも受け継がれる伝統的なカラーリングであり、赤い部分と黒い部分の境界がはっきりしている点も古いモデルならではの特徴である。
文字盤はブラック。大きく太ったケースに似合う、堂々とした存在感を持つ。24時間針は赤色で、視認性を高めている。インデックスや針には、経年変化でクリーム色に変色したトリチウム夜光が使用されている個体が多く、それがヴィンテージ感を一層引き立てている。
心臓部のキャリバー3085は、GMT機能の進化に加え、秒針停止機能も備えていた。これは、正確な時刻合わせを可能にする重要な機構である。パワーリザーブは約50時間。防水性能は100mで、当時のプロフェッショナルウォッチとしての水準を満たしていた。
ファットレディ 16760の生産期間は1983年から1988年までの約5年間と比較的短い。そのため、現存数は多くなく、コレクターズアイテムとして高い価値を持っている。愛称はともあれ、この「太った貴婦人」は、GMTマスターIIという伝説のシリーズの幕開けを飾った、まぎれもないパイオニアなのである。